夢の話

いつからだろう。

日々の業務に忙殺されて本当になりたいものを忘れてしまっていたのは。

いつからだろう。

だんだんと仕事から笑顔がなくなっていたのは。

いつからだろう。

患者さんと向き合うのが面倒になっていったのは。

 

俺はどうなりたかった?

俺はどんな医者に憧れていたんだっけ?

 

俺は世界一の外科医になりたい。

いつも笑顔で患者さんを救っちゃうような、かっこいいヒーローみたいなお医者さんになりたい。

みんなが憧れるような、キラキラした輝きをもつ人でありたい。

 

そんな大切な夢をいつしか忘れてしまっていた。

忘れてごめん。

必ずなるから。

世界一の外科医に、かっこいいヒーローになるから。

夢の話

いつからだろう。

日々の業務に忙殺されて本当になりたいものを忘れてしまっていたのは。

いつからだろう。

だんだんと仕事から笑顔がなくなっていたのは。

いつからだろう。

患者さんと向き合うのが面倒になっていったのは。

 

俺はどうなりたかった?

俺はどんな医者に憧れていたんだっけ?

 

俺は世界一の外科医になりたい。

いつも笑顔で患者さんを救っちゃうような、かっこいいヒーローみたいなお医者さんになりたい。

みんなが憧れるような、キラキラした輝きをもつ人でありたい。

 

そんな大切な夢をいつしか忘れてしまっていた。

忘れてごめん。

必ずなるから。

世界一の外科医に、かっこいいヒーローになるから。

人間の尊厳と選択の自由

忘れられない患者さんがいる。

35歳の、若く美しい女性だった。

全身がだるくなりお腹が張ってきたため病院を受診したところ、診断は卵巣癌。

既にStageⅣまで進行しており、手術もできない状況だった。

 

卵巣癌は残酷な癌である。

卵巣癌の発生要因に生活習慣はほとんど関係がない。

喫煙や飲酒をまったくせず、食生活にどれだけ気を使っていようと、遺伝的背景など自分ではコントロールできない要因で発生確率が決まってしまう。

初期は基本的に無症状。発見されるときにはすでにかなり進行していることが多く、死亡率は高い。

 

その中でも特に予後が悪いといわれる、明細胞癌という種類の癌だった。

手術は出来ず、化学療法の奏効率も高くはない。

予後は限られ、絶望的な状況だった。

 

その方も自分が置かれていた状況は理解していたと思う。

だが、日々の立ち居振る舞い、医療従事者への態度は、思いやりと慈愛に満ちたものであり、人間の尊厳が現れていた。

 

私が病室を訪れると、必ず「先生今日もお疲れ様です。」と声をかけてくれる。

手術などで夜遅くに訪室すると、「大変なんですね、無理はしないでくださいね」と気遣って下さる。

私にできることはほとんどなく、ただ話を聞いてあげるくらいなのだが、「いつもありがとうございます。また来てくださったらうれしいです。」と感謝を示してくださる。

 

なんと美しい人だろう。なんと気高い人だろう。

まだ若く、美しく、未来には無限の可能性が広がっていたはずだ。

それが無慈悲に奪われようとしている。

普通なら、現実を恨み、反抗しているだろう。なぜ私がこんな目に合わなければならないのだとわめいているだろう。

 

だがその方は、そのような状況に置かれてさえ、人への気遣い、感謝といった美しい感情を抱き続けていた。

私はその決然とした態度、その人間性の気高さにいつも感動していた。

 

ヴィクトール・フランクルはその著書「夜と霧」の中で、「何が起ころうとも、それに対する反応は自分自身の中で選択することができる。」と語っていた。

そしてそれこそが人間の最後の自由であり、尊厳であると。

アウシュビッツというこの世に作り出された地獄の中で、看守たちに肉体と行動は支配されながらも、精神の自由は保てるのだ。

 

翻って私たちはどうだろう。

誰かに怒られると落ち込む。せわしない毎日にイライラする。誰かのちょっとした発言に傷ついたり、腹を立てたり。

環境や状況に支配され、自分の感情に支配されて生きてはいないだろうか。

 

どのような状況に置かれようとも、自分の精神、立ち居振る舞い、行動には選択の自由がある。

自らがその選択権を放棄しない限り、何者もその精神の自由を奪うことはできない。

そしてその精神の自由こそが人間の尊厳なのではないだろうか。

 

今の世の中、先行きは明るくないかもしれない。苦しいこともたくさんあるだろう。

それでも、自分がどのように感じ、どのように振舞うかは選択することができる。

こんな時代だからこそ、人への愛情、感謝、勤勉など、美しい価値観に基づいた行動を選択していきたい。

 

信用を積む

信頼される人と信頼されない人。

その違いはどこから来るのだろう。

 

私が信頼しているのは、私の想いに正面から向き合ってくれる人。私の想いを受け止め、自分の想いを伝えてくれる人。

 

お金を持っている人やルックスがいい人、華がある人などが注目されがちな世の中であるが、本当にずっと人が集まり続けるのは信用を積み重ねてきた人なのだろう。

この人なら大丈夫。この人と一緒にやりたい。

そう思ってくれる人がたくさんいる生き方。

 

私は信用を積んでこれただろうか。信頼に値する誠実な人間であれただろうか。

時間を守るのが苦手でとかく遅刻しがちな自分自身を戒めて、今一度信用を積む生き方を心がけたい。

ありがとうを稼ぐ生き方

仕事がつまらないと嘆く人がいる。

給料が安い、残業が多いと不満をいう人がいる。

 

確かに仕事だからつらいことはあるだろう。苦しいことはあるだろう。

誰もが望んだ職業に就けるわけじゃないし、やりたくないことをやらなければならないこともあるだろう。

 

それでも、仕事は尊いものである。

どんな仕事にも等しく価値がある。価値がない仕事など存在しない。

なぜなら、その仕事が存在するのは、その仕事を必要だと感じていて、そのおかげで助かる人がいるからなのだから。

 

だから、どんな仕事でも、その仕事が存在する限り、その仕事に感謝している方が必ずいる。

それは目には見えないかもしれない。直接触れ合うことはないかもしれない。

それでもすべての仕事の最終地点には、感謝してくださる誰かがいる。

あなたの仕事のおかげで助けられたと感じる方がいる。

 

そう考えたら、仕事で決して手は抜けない。感謝してくださる方の笑顔を考えたら、適当にやることなどできない。

目の前の仕事を一生懸命、自分のベストを尽くしてやる。

時には無力を感じることもあるだろう。時には何もうまくいかず、泣き出したくなる時もあるだろう。

 

それでも、心を尽くしてやるのだ。

そうすればいつか、大きな感謝が返ってくる。

たとえ頑張りが認められず、何の意味もないような気がしていても、それは必ず誰かの役に立っている。

そして巡り巡って大きな感謝が返ってくるのだ。

 

ありがとうを稼ぐ生き方をしよう。たくさんのありがとうをもらうために懸命に働こう。

それが人間の尊さであり、美しさなんじゃないだろうか。

 

いつか小説を書いてみたい

タイトルのまんまだけど。

いつか小説を書いてみたいと思っている。

 

書きたい話は決まっている。物語の始まりから、結末のワンシーンまで映像として浮かぶくらい明確に物語は出来ている。

にも関わらず書けない。途中で思いがつかえてしまうのだ。

 

物語には書き手のそれまでの経験、想いが練りこまれている。

それは生のままごろっと置かれていることもあれば、美しく調理されて人々がおいしく食べられるように工夫されていることもあるけど。

どんな形にせよ、すべての文章の中からその想いは立ち上ってくるのだ。

 

私にも伝えたい思いがある。吐き出したい思いがある。だからこそこんな形でひとりごとを綴っているのだけど。

 

人に想いを届けようとするとき、それは自分の中で消化できていないと外に出すことはできない。

何度も何度も考え、自分の一部となった思いだけが、自分の中から引き出される。

 

もちろん借り物の考えをさも自分の考えかのように語ることはできるけれども。

人の想いは行動に現れ、決してごまかすことができない。

それは文章を書くという行為の中でもごまかせないと思っている。

 

私には伝えたい想いがある。

たくさんの悩みや苦しみ、挫折を経験し、必死に考え生きてきた、その想い。

それを同じように苦しみ、悩みながらも懸命に生きようとしている人に伝えたい。

 

今私が考えていること、想っていることはまだまだ未熟で青臭く、風が吹けば飛んでしまうような淡いものなのだろう。

これからさらなる苦悩を重ね、何度も何度も考え、そのたびに拠り所とし大切にしてきた思いだけが、自分の血肉となり、そしていつか誰かの支えになれるのかもしれない。

 

今の自分には自分の書きたい物語は書けない。

だから今は考え続ける。ただひたすらに考え続ける。

そして今抱えるこの想いを消化することができたならば。自分の血肉に昇華することできたならば。

 

その時は、いつか小説を書いてみたい。

ただ生きることの難しさと生命の輝き

 先日、ホタルをみた。

薄暗い闇夜に儚く輝く、光の数々。その淡くも力強い光一つ一つが生きていると叫んでいるような気がした。

 

ホタルの寿命は短い。

生まれてから1年ほどを水の中で過ごし、その後陸に上がって土の中で成虫になるのを待つ。

2ヶ月ほどのさなぎの期間を経たのち、成虫として空へはばたきあがると、つかの間の淡い恋を楽しみ、子孫を残して2週間ほどでこの世を去っていく。

 

成虫の、空を飛べる間だけがホタルの人生だなんてとらえ方は人間の傲慢かもしれないけど、ホタルの光は見ていると美しく儚いものだとの印象を受ける。

 

懸命に生きる小さな生命。

ただ生きているだけでなぜこんなにも感動させるのだろう。

 

ホタルだけじゃない。道端に咲いている小さな花や、空を舞う鳥たち、ただ何年も同じ場所に立ち続けている木々などをふと目にしたとき、なぜか言いようのない感動に襲われることがある。

 

ただ懸命に生きている。命を燃やして生きている。

それはとても美しく、気高いことのようだ。

 

人間も同じなのだろう。ただ懸命に生きていれば生命は自ずから輝き、気高い人となるのだろう。

 

二宮尊徳という人がいる。二宮金次郎像の人だ。

二宮尊徳は、農民出身でありながら、誰よりも懸命に働き村の農業の発展に尽くしたため徳川幕府に登用されることとなった。

その際の尊徳の立ち居振る舞いは、教育を受けていないにも関わらず、貴族と見紛うほど美しいものだったという。

 

ただ一生懸命、生命を燃やして熱心に取り組む。余計なことに惑わされず、懸命に生きる。

それこそが生命を輝かせ、人を美しくするのだろう。

 

病院の中では、その人の資産も、社会的地位も、今までの経歴も価値を持たない。

医療者側にわかるのはその人個人の人間性だけだ。

 

高い個室に入り、お金も持っていそうだなという人でも、人間的に未熟さを感じさせる人はたくさんいる。

逆に大部屋の中にいても、自分の現実を淡々と受け止め、周りへの気遣いを忘れず、こちら側にも感謝の意を丁寧に示してくださる方もいる。

そういう方の生きざまの美しさ、人間としての重さにはひたすらに頭が下がる思いがする。

 

病院の中ではごまかしがきかない。

その人がどれだけ真剣に生きてきたか。その人自身が作り上げてきた人格が克明に描き出されている。

 

はたして私はどうだろうか。

日々悩み、迷い、余計なことばかりに時間をとられている。

簡単に大切なことを見失い、だらだらと時間を消費してしまったりする。

きっと美しさには程遠い生き方だろう。

 

ただ生きる。草も木も花も虫も鳥も動物も、当たり前のようにできていることが、私たち人間にはとても難しい。

だからこそ一生懸命に生きる人々はとてもまぶしく、美しい。

 

時には自然の声に耳を傾け、自分の生き方を見つめなおす必要があるのだろう。