人間の尊厳と選択の自由

忘れられない患者さんがいる。

35歳の、若く美しい女性だった。

全身がだるくなりお腹が張ってきたため病院を受診したところ、診断は卵巣癌。

既にStageⅣまで進行しており、手術もできない状況だった。

 

卵巣癌は残酷な癌である。

卵巣癌の発生要因に生活習慣はほとんど関係がない。

喫煙や飲酒をまったくせず、食生活にどれだけ気を使っていようと、遺伝的背景など自分ではコントロールできない要因で発生確率が決まってしまう。

初期は基本的に無症状。発見されるときにはすでにかなり進行していることが多く、死亡率は高い。

 

その中でも特に予後が悪いといわれる、明細胞癌という種類の癌だった。

手術は出来ず、化学療法の奏効率も高くはない。

予後は限られ、絶望的な状況だった。

 

その方も自分が置かれていた状況は理解していたと思う。

だが、日々の立ち居振る舞い、医療従事者への態度は、思いやりと慈愛に満ちたものであり、人間の尊厳が現れていた。

 

私が病室を訪れると、必ず「先生今日もお疲れ様です。」と声をかけてくれる。

手術などで夜遅くに訪室すると、「大変なんですね、無理はしないでくださいね」と気遣って下さる。

私にできることはほとんどなく、ただ話を聞いてあげるくらいなのだが、「いつもありがとうございます。また来てくださったらうれしいです。」と感謝を示してくださる。

 

なんと美しい人だろう。なんと気高い人だろう。

まだ若く、美しく、未来には無限の可能性が広がっていたはずだ。

それが無慈悲に奪われようとしている。

普通なら、現実を恨み、反抗しているだろう。なぜ私がこんな目に合わなければならないのだとわめいているだろう。

 

だがその方は、そのような状況に置かれてさえ、人への気遣い、感謝といった美しい感情を抱き続けていた。

私はその決然とした態度、その人間性の気高さにいつも感動していた。

 

ヴィクトール・フランクルはその著書「夜と霧」の中で、「何が起ころうとも、それに対する反応は自分自身の中で選択することができる。」と語っていた。

そしてそれこそが人間の最後の自由であり、尊厳であると。

アウシュビッツというこの世に作り出された地獄の中で、看守たちに肉体と行動は支配されながらも、精神の自由は保てるのだ。

 

翻って私たちはどうだろう。

誰かに怒られると落ち込む。せわしない毎日にイライラする。誰かのちょっとした発言に傷ついたり、腹を立てたり。

環境や状況に支配され、自分の感情に支配されて生きてはいないだろうか。

 

どのような状況に置かれようとも、自分の精神、立ち居振る舞い、行動には選択の自由がある。

自らがその選択権を放棄しない限り、何者もその精神の自由を奪うことはできない。

そしてその精神の自由こそが人間の尊厳なのではないだろうか。

 

今の世の中、先行きは明るくないかもしれない。苦しいこともたくさんあるだろう。

それでも、自分がどのように感じ、どのように振舞うかは選択することができる。

こんな時代だからこそ、人への愛情、感謝、勤勉など、美しい価値観に基づいた行動を選択していきたい。